無気力人間

「めんどうくさい」が口癖の人間が書いたブログ

想像力の天敵

グリッグリッっと靴の皮が、歩くたびに足の甲にめり込んできて痛い。この靴は買って日が浅いから、皮がまだ足の形に馴染んでいないのだ。この靴も私と同じように、他と打ち解けるのに時間がかかってしまうタイプなのだろう。

私は、痛みを避けるために足を引き摺るように歩いたり、ガニ股で歩いたりするが、一向に痛くない歩き方が見つからない。皮が馴染むまで我慢するしかないのか、それともこの痛みはこの靴を履き続けている限り無くならないのか、などと考えている時にあることに気づいた。

「私は今、想像力を失っている」

自分の痛みに気を取られすぎて他のことを考えられなかった。その証拠に、前を歩く人の手の平からヒラリと落ちていったレシートを拾い上げようとも思わなかった。彼は捨てたつもりだったのかもしれないが。

痛みは思考を独占し、想像力を奪ってしまう。

想像力の遮断物は痛みだ。

痛みを感じている人は、他のことを考えている余裕がないから、他人を傷つけやすい状態なのだ。

席は譲った方がいいよね?

電車の座席に座っている私の目の前に、右手で杖を持ち、左手でつり革を掴んでいる老爺が立っている。私は席を譲ろうと立ち上がり、「どうぞ」と手のひらで空いた座席を差して、座るように促した。しかし「いえいえ、大丈夫です」と老爺にやんわりと断られてしまった。すでに立ち上がっている私はどうしたらよいかわからず、「いえいえ、どうぞ」と言い残して、離れた扉の横へ逃げてしまった。

扉が閉まり電車が動き出す。横目で老爺の方を見てみると、私が譲った席に座ってくれていた。不自然に一人分のスペースが空いているという不気味な光景にならなかったことに安心した。

電車が駅に着き、降りる人が扉に近寄ってくる。私の最寄り駅はまだ先だったので、私は扉の端に寄り、壁にへばりつくようにして道を開けた。扉がプシューと音を立てて開くと同時に私の肩をチョンと突いてくる感触がした。顔だけ振り向くと先ほどの老爺だった。「どうもありがとうざいました」と顔の前で手を合わせていた。そして老爺は電車から降りて行った。私は複雑な気持ちになった。感謝されてうれしいという気持ちと、これでよかったのだろうかという不安だった。

私があの時、断られているのに、席を半ば強引に押し付けたせいで、老爺は席に座らなくてはならなくなった。それに電車から降りる時には、私が感謝を切望しているであろうと気を使って感謝の言葉を言わさせてしまった。私の自分勝手な善意を押し付けられた老爺はありがたかっただろうか。

ああ、考えたところで正確にはわからない。

考えるべきなのは私が優しかったかどうかだ。

優しい人とは良い人であろうとする善人のことだと思う。

私は優しい人でありたい。

星がきれいだ

さあ寝ようと部屋の電気を消してベッドに寝転がり、ふと窓に目をやると、空に無数の星が輝いていた。星座なんて全く知らないけれど、おそらく北極星とか冬の大三角とかがきれいに見えていた。

「電気を消して空を見ると星が見える」

私はこの時、「暗くならなければ星は見えない」という当然のことに気づいた。それがなんだか塞ぎがちの自分を肯定してくれているようで嬉しくなった。自分が暗い性格だからこそ見える星があるのではいかと思った。

「暗くならなければ星は見えない」それは当然のことではあるのだけれど、意外と知られていないことなのではないか、もしや私は特別なことに気づいてしまったのではないか、などと思い上がった。その思い上がりを確信に変えるため、ネットに検索を掛けた。どこかの経済学者とか一般人が普通に言っていた。

この世界にアイデンティティなどあるのだろうか。被ることのない人間などいるのだろうか。

それはどこかの誰かよりも早く発言することにより得られるものなのだろうか。いや、そんなもの争う必要なんてないのだろう。面倒くさい。

私はただ、暗いことが悪いことではないと星に願っておこう。

そして何歳になっても夜空に浮かぶ星たちをきれいだと思える心でいよう。

 

三分待つ?

即席ラーメンにはおいしさのグラフがある。

おいしさのグラフとは、カップの中で固まっている麺が、お湯を注ぐとともに、柔らかくなったり伸びてしまったりして、おいしくなったり微妙になったりすることを表したものだ。ただの私の妄想のグラフである。

一般的に即席ラーメンは、お湯を入れて三分後に食べ始めるように推奨されている。つまりお湯を入れて三分後の麺が一番おいしいということなのだろう。

しかし私の場合、お湯をカップに注いで10秒後には箸でつついて麺をほどき始めている。そしてそのほどけた麺を食べていく。最初はもちろん固いのだが、食べ進めていくと柔らかくなっていく。味のパフォーマンス、つまりおいしさのグラフとしては右肩上がりだ。待ち時間が少ない、食感のストーリーを楽しめる、それらが利点の食べ方である。

一方、企業の命令に従って三分後に食べ始めた場合では、おいしさのグラフが最高潮から始まり、その後は地と水平に近い右肩上がりか、右肩下がりだ。こちらの利点はおいしい時間が長いこと、そして食べる前の三分間が空腹のスパイスとなることが利点である。しかし伸びきるまでの時間が少ない。

どちらがいいということはない。

私はすぐ食べる派だというだけで、この食べ方を他の人に強制するような愚かなこと、あるいは他の人の食べ方を軽蔑するような貧しいことはしない。

ただの個人の意見だ。